はじめまして! Tomoと申します。
いつもウェブサイトを見て頂きありがとうございます。
興味を持ってくださってとても嬉しいです。
今日は、建築デザインで様々な3dソフトや、プログラミングをかじった私が、Houdiniに出会って、ゲームエンジンを使えるCGデザイナーを目指している話について詳しく書こうと思います。
最後まで読んでいただけたらとても嬉しいです!
目次
はじめに
今は私は建築設計を生業としています。
これは私の現在の仮の姿です。
自分の夢にダイレクトに最初から向かえることは少ないと思うのです。
私の夢は映画の製作に何らかの形で携わりたいと思い、あらゆるテクノロジーやCGを駆使して、都市等の大きなスケールのものをデザインしたいと思っています。
何故私はCGデザインの仕事に携わりたいのか。これは私の現状考えうるベストの夢だからです。
ベストの夢とは、小説「アルケミスト」でいう、少年の夢である「ピラミッド」のようなものです。
CGデザインが私の最終的なゴールかはやってみないとわかりません。
一つの経過点なのかもしれませんし、目標に向かっていくにつれ変化するかもしれません。
でも、今、自分が正しいと思える一つの目標であることに変わりありません。
映画と建築の接点とは
映画の製作会社と建築の接点はどこかと考えるようになりました。
するとReal Time 3d Rendering、いわゆるUnityなどのゲームエンジンが搭載しているレンダリング(描画)手法があります。
最近は、映画でもアニメでもリアルタイムで描画する方法を模索しつつあり、産業の壁が溶けつつあるのです。
製造業でも様々なシミュレーションが可能なプラットフォームとしてゲームエンジンが注目されています。
もちろん建築でも同様にゲームエンジンを使った試みがスタートしています。
その大きな枠組みの中で言うと、建築と映画の違いは、デザインしたものが実際に建つか、仮想空間で終わるかぐらいの違いしかないのではないかと思っています。
そこで私は自分のキャリアにリアルタイムレンダリングによるCGデザインを加えるべく、今後の身の振り方を考えようと思っています。
そしてCGデザインを突破口にして映画の道へも入れるよう、準備を重ねていきたいと思っています。
このプロフィールでは私が最終的な自己実現を果たすためにどのようなプロセスを経て人生を進めてきたかについて書きたいと思います。
それから、今後の映画業界へのアプローチの仕方をウェブサイトの方でお伝えできれば良いと思っています。
今までずっと建築に囚われてきました
私は高校卒業以来、過去18年間建築にスキルを振り込み続けていました。
6年間の建築学部での生活、それから、11年に渡る組織系設計事務所での生活がそうです。
建築学部を出て以来、建築以外のことはほぼ全く考えませんでした。
朝から数百のメールに目を通し、ひたすらモデリング作業を黙々とこなしました。
遅くには時差による会議を行い、夜は終電で帰れれば良い方でした。
日々の仕事に忙殺され、自分の本当に好きなことが何なのか考える暇はありませんでした。
いつのまにか、私は自分の活動範囲を建築という範疇に狭めてしまったのです。
しかし、私には建築への愛が欠けていました。
私にとって建築の雑誌を見る、建築を学ぶということは苦痛でした。
建築そのものというよりも建築の美術的側面に惹かれていたのでしょう。
図書館の蔵書もグラフィックスには興味があるものの、ほとんど興味を持ちませんでした。
そんな中、私は本当に建築が好きなのだろうか、果たして建築は私にとって天職なのだろうかと疑うようになります。
温度差のある職場
私が新卒入社した会社は本当に建築が好きで仕事をしている人たちで溢れていました。
建築が好きで好きでしょうがない人達。
雑誌を見たら飛びつく人達。
プライベートも建築を見る。
展示は欠かさずチェックする。
なんなら建築でご飯が進む。
その中で私は、自分は建築をそこまで好きではないことをコンプレックスに思っていました。
私は自分が建築にのめり込めないことを努力が足りないせいだと思い目の前の仕事を好きになろうとしました。
好きになろうと努力しましたが、「本当に好きな人達には勝てない。」そう思いました。
身を粉にして遅くまで楽しそうに働く上司を見て、私は建築という範疇では勝ち目がないと悟ります。
どちらかというと私は建築そのものよりも、その周りのテクノロジーに興味があったのです。
上司が建築オタクなら、私はテクノロジージャンキーであったと思います。
ありとあらゆるテクノロジーに興味があった私は、自分のプロジェクトにどんどん新しい技術を取り入れ開拓を始めました。
しかし、建築の分野というのはそう簡単に新しいテクノロジーを適用できるほど身軽ではないのです。
いや、身軽には程遠く、かなり保守的であると感じていました。
そこで私は自分の建築やテクノロジーに対する思いと、会社の方針に違和感を感じ始めて会社を後にすることになるのです。
自分の本当に好きなこととは何なのか
それなら本当に好きなことを職業にすればいいじゃないか!
でも、自分の好きなことって何だろう?
ふと立ち止まって考えてみると、なんだかわからなくなってしまうのです。
よくよく考えてみると、私は新しいテクノロジーを取り入れることが好きです。
いち早くどんなソフトウェアにも噛り付いてプロジェクトに取り入れてきました。
そこが普通の意匠設計者と私の違いだと思っています。
それから、私は洋画(映画)が好きだということを自信を持って言えます。
有名なタイトルはたいてい見ていますし、FILMARKSで自分のランキングを作ってしまうくらい好きです。
映画製作といっても私の持っているスキルセットで映画製作と被る分野というとリアルタイムレンダリングと3dモデリングです。
いわゆるゲームエンジンを用いたCGデザインですね。
何故私はCGデザインに興味を持ったのか、自分のルーツをこれからお話します。
何故私はCGデザインをやりたいのか
幼少期~中学生まで
話はなんと幼稚園まで遡ります。
なんの課題か忘れたのですが、竜の絵を描いたのを覚えています。
この時に一枚一枚のうろこを描いていって集中力を発揮し、プログラムが終わってもずっとうろこを描き続けていました。
この時の私はいわゆるM・チクセントミハイの言うフロー体験をしていたことになります。
私は絵を描くということに対し幼少期からこだわりがあったように思います。
次に私に影響を及ぼした出来事は「ゴジラVSモスラ」でした。
”極彩色の戦い”とネーミングされた戦いは五感で私に映画というエンターテイメントのすばらしさを伝えてくれました。
ここから、私のゴジラ熱が加速していきます。
おもちゃのソフビだけでは飽き足らず、本格的なガレージキットや、自分でポリパテを使ったフルスクラッチ(キットなしで最初から造形してしまう)等も行っていました。
彩色も中学生ながらエアブラシを購入し行うというこだわりっぷりでした。
これは1995年の平成ゴジラシリーズが終わる時まで続きました。
ここからだんだんと私は洋画にも興味を持ち始めます。
きっかけはエイリアン(シガーニー・ウィーバー)・ダイハード3(ブルース・ウィリス)とスピード(キアヌ・リーヴス)でした。
映画のテンポの良さと危機感迫る描写、洋画という新しい分野に可能性を感じ始めました。
特にエイリアンを見た時の衝撃と言ったらもう!
なんだあの形は!
パイプみたいな工業的な形が集まってグロテスクなまでの圧倒的造形力によってデザインがまとめられているという。
私はH.R.ギーガーの圧倒的世界観にやられ、エイリアンづくりに没頭します。
中学生の時の美術の課題ではエイリアンの頭部を作りましたし、文化祭ではエイリアンの卵を展示しました。
両方とも男性器と女性器をモチーフにしてあるので、友達からは大分からかわれましたが(笑
高校で進路に悩む
高校になると進路に悩むようになります。
好きなのはエイリアンでしたが、両親はもっと地に足の着いた職業につながる学問を学ばせたかったようです。
そこで私の自分なりの決断があったわけですが、当時の私は、数学と物理が得意でしたので、美術と数学と物理を足して3で割ったら建築になるという、間違った認識で建築学部を目指しました。
これは間違いの第一歩ではありましたが、何かを始めない事には自分が何が好きかなんてわからないものです。
良いスタートではあったと思っています。
日本では工学部に属しているのでデザインを学べないということもあり、海外のArchitectureというデザインよりの工学部からは独立している分野を専攻したいと考えました。
というのは方便で、実をいうと、理由は他にあったのです。
高校の時に私はエイリアンのデザイナーH.R.ギーガーの個展に行きました。
その時に彼の経歴をみて、そこに建築学部卒という文字を見つけたのです。
そうか!米国の建築学部に行けば、デザイナーとして活躍する道が開けるかもしれない!
海外の大学でデザインを学びたい!
しかし、もちろんこれは両親の大反対にあうことになります。
「海外なんてとんでもない!」と、、、
そこで、私はあきらめませんでした。
私は米国の大学を調べ上げ、サイアーク(South California Institute of Architecture)という有名な学校があるということに気づきます。
しかし、そこは私学、目玉が飛び出るぐらいの学費がいります。
私が両親を説得できる理由として、学費が日本の国立大学と同等程度であること、安全であること、勉強する環境が整っていること等を満たしたデザインが有名な学校を探す必要がありました。
そして、私が見つけたのは片田舎の州立大学です。
学費は安く、生活コストも安く、安全で、勉強以外にすることもないようなところです。
サイアークとは比べ物になりませんが、I.M.Peiの流れを汲む良い学校だったと思います。
そして、私は高校卒業後、渡米することになりました。
大学、24時間灯りが消えない建築学部へ
私が初めて建築学部に足を踏み入れたのは、入学して間もないころでした。
Architecture Societyというクラスを取ってその宿題を提出しに建築学部のスタジオに行きました。
すると一階のギャラリーに5年生のプレゼンテーションボードと模型が飾られていたのですね。
そのプレゼンテーションボードを見た時に私の体には高圧電流が流れたように感じました。
これだ!私がやりたかったのはデザインだ!と改めて思いました。
5年生のボードはプロポーションがとてもきれいでフォントもカッコよく、色の使い方も大胆でとても魅力的だったのです。
それから模型もかなり複雑な形をしていて素人目には一見どうやって作っていいかわからないようなものでした。
この時に私は究極の勘違いをします。
私のやりたいことは建築だ!と思ってしまうのです。
この間違いはこれはこれで当時は良かったのです。
過酷な建築学部を卒業する上で、それくらいの勘違いがなければ私は成し遂げられなかったでしょう。
ここから私の建築学部に泊まり込みでの課題作成の日々が始まります。
建築学部のデザインスタジオでは一人一つずつ机が割り当てられます。
そこに冷蔵庫やら寝袋やらを持ち込んで生活が始まるというような感じです。
基本そこで暮らして、たまに寮に戻ってシャワーを浴びるみたいな生活を繰り返していました。
しかし、年次が上がるにつれ私の中で建築への愛のなさがだんだんと明るみに出てきます。
当時、図書館が建築学部にはあったのですが、一向に私はそれを読む気配がないのです。
他の学友は雑誌を読み漁り、ディテールについて語り、建築論を戦わせているのに、私はそれよりも自分の造形力を磨こうとやっきになっていました。
私の学校は5年制でArchitectの資格にエントリーできるという建築家への最短ルートを走れる所でした。
2年目の終わりには選抜があり、上位30名のみが建築学部の3年次に進めるということになっていました。
私は何とかその選抜をクリアし、卒業への道を歩み始めます。
私の学校では、最初の3年はPCの使用は禁止されていて、全部手書きで図面を描く必要がありました。
4年生で初めて私はCGと出会います。
最初に使ったプログラムはAutoCADと3dMAXでした。
3dMAXを手にした私は形の操作に魅了され、徐々にCGの世界に引き込まれていきます。
最後の方はもはや建築とは呼べない何だかわからない形を作るようになっていました。
教授ともかなりぶつかることが多く、何度も卒業できないのではないかという危機を感じました。
実際私は一つのクラスでF(不可)を取ってしまい一年留年することになります。
その間に私は教務補佐として一年生のスタジオを教え、学費を稼ぎ、ついでに副専攻に美術を取得するということが出来ました。
これによって私はよりデザイン色を増していくことになります。
マイアミの事務所へ就職する
卒業後、私はREVITに沸くマイアミの設計事務所に就職します。
OPTといって(Optional Plactical Training)ビザなしでも一年間働くことができるのです。
マイアミとは日本でいう沖縄みたいなところです。
毎晩パーティーがあって、海があって、のんびりした観光地です。
ここで私はSketch-UPとAutoCADのスキルをかなり上げることに成功します。
この辺から私の3dモデリングスキルの醸成が始まっています。
ここでは私は日本人であることのアドバンテージを生かせずにいて、日本に戻る決断をします。
ビザのオファーは来ていたのですが、それ以上に日本語と英語両方を生かせる場所で働きたかったのです。
これは正しい決断でした。
というのは、この後リーマンショックに襲われたマイアミはほとんどのプロジェクトを失いほぼ総員解雇になるのです。
そこで、日本に10社くらいポートフォリオを送ってその中で2社返事があり、そのうちの一つが約10年間その後勤めることになる、某組織系設計事務所でした。
日本へ
日本に戻った私は、日本の建築業界の惨状に驚きます。
徹夜に次ぐ徹夜、終電、タクシー、サウナ、タッチアンドゴー(飛行機の離着陸訓練のように家に帰ったらシャワーを浴びてすぐ出勤すること)、定時で帰れていたマイアミが懐かしいと思いました。
最初の仕事は都市計画の建築を絵にするという仕事で、私の得意なタイプの仕事でした。
夢を描くというのは私はとても好きで、徹夜する傍らデザインする喜びを噛み締めていました。
そんな中、リーマンショック前のバブルに沸くドバイのプロジェクトが増え始め、私はドバイにデザイン事務所を作るべくして、ドバイに送り込まれます。
ドバイへ
ドバイでは、駐在事務所の設計とドバイの物件を掛け持ちで担当し、設計、ドキュメントコントローラー、プロマネ補佐をしていました。
しかし、2009年にはリーマンショックによって案件もろとも吹っ飛んでしまい、せっかく竣工間際まで作ったドバイ事務所もイギリスの金融系の会社に売り払うという結果に終わってしまいました。
このころの、ドバイはほぼ無法地帯で、あり得ない時間を仕事に割いてました。
そしてデザインらしいこともあまりできず、辛かった記憶があります。
仕事内容は調整が多く、プロマネ補佐はあまり向いていないなと思いました。
それからせっかくデザインしても売り払われてしまうのは悲しい出来事でした。
再び日本へ
日本に帰国すると待っていたのはコンペ(プロジェクトをお施主さんから発注してもらうための設計競技)でした。
学校のコンペだったのですが、初期のスケッチ以外ではあまりデザインらしいこともできずに、模型を作ったりしていました。
このコンペはチームメンバーの活躍もあり、無事取ることが出来ました。
そして、私はとある商業施設の外装デザインチームに配属されます。
外装をデザインするものの、なかなか自分の案が採用されず悔しい思いをします。
小店舗のデザインも後輩のデザインが採用され、悔しい思いをしました。
その否定の連続の中でだんだんと自分を見失って自分の価値を信じられなくなっていきます。
私は3dと初期のデザインを得意としていたため、プロジェクトを転々とすることになります。
できた物件を見て私の存在価値なんてほぼないなと思いました。
この辺から私は自分のデザインがあまり役に立っていないのではないかと考えるようになります。
サウジアラビアの物件
そうこうしているうちに、私はまた海外の物件に突っ込まれます。
このころは原油価格が高かったのでサウジアラビアの物件が多かったように思います。
後に原油価格の下落によって立たなくなってしまうのですが。
コンセプトの柔らかい段階から3Dモデリングでいくつもの案を提案するという仕事でした。
これも私の得意とする分野でしたので楽しく仕事が出来ました。
最終的には、REVITを使ってベトナムのBIMコンサルに図面を外注していました。
私がREVITを本格的に使い始めたのはこのころからです。
インドネシアの物件を担当する
次のプロジェクトは、てっぺんが捻れた超高層ビルでした。
よく分からない人も多いと思いますが、rhinoceros+grasshopperでのモデリングが必須になります。
ここで私は独学で勉強し、頂部のデザインを自動化します。
というのは、構造、ファサードの最適化、BMUなどバラバラなインプットから常に最新の情報の3dモデルを作成する必要があったからです。
パラメトリックのデザインはその変更をリアルタイムで反映させるためにとても都合がよかったのです。
それから、ゼネコンと、構造コンサルはREVITを使っていたので、レビットでのモデル渡しを可能にするために、Adaptive ComponentとDynamoを勉強し、捻れた形をREVITで表現することに成功しました。
この辺で私の意匠系3dモデラーとしての役割が確立されたような気がします。
再びドバイの物件へ
再びドバイのプロジェクトを掛け持ちしまして、ブルジュ・カリファ近くの高層住宅を担当します。
REVIT ベースで有機的なデザインを手掛けるも、VE(バリュー・エンジニアリングといってコストの削減と同義)であえなく撃沈し、四角いタワーをデザインすることになります。
ここでも、私は自分の存在価値の薄さを突き付けられる結果となります。
ジェッダのリゾート
この物件では、ライノとグラスホッパーでサインカーブを使った波を表現したファサードを作ります。
しかし、この物件はお施主さんから何度もダメだしを頂き、頭を捻っていろいろな案を出しましたが、どれも気に入ってもらえませんでした。
私は建築界での自分の活躍の限界を感じ、また、社内でのソフトウェアの使用に関する方針にも不満があり、退社を決意します。
一級建築士の取得
退社をしてからまず考えたのは一級建築士の取得でした。
これは、最適な取得ルートがあるので別記事で紹介いたします。
建築士の取得は転職の前哨戦ですね。
これをまずは一年やりました。
Unity C#
続いて始めたのはゲーム作りです。
私はプログラミング言語を一つ学びたかったので、とりあえずゲームを作ることにしました。
それからVRにも興味があったのでシナジーの効くUnityとC#を学ぶことにしました。
講師のいないプログラミング勉強会というのに所属し、毎週自分が独学で勉強した内容を発表し続けています。
この時に心掛けていたのはとりあえず何かを学び続けるということでした。
手を止めてはいけない。
立ち止まってはいけない。
走りながら次を考えていました。
そこで出会ったのがHoudiniです。
Houdiniにたどり着く
紆余曲折を経て なんと、そこで出会ったのは映画も作れるソフトでした。
しかもプログラミングを独学したことも生かせるプロシージャルな手法のソフトです。
私は運命的にもう一度映画に繋がる出会いをしてしまいました。
ここで、私は確信します。私は仕事で映画に関わりたい!!
このAVENGERのVFXの動画を見て、恐ろしいと思いました。
こんな事できるのだろうか、いや、できない。
でも、やってみたい。
長くなりましたが、これが私のCGデザインをやりたい理由です。
何のためにデザインを発信するのか
没案はもったいない
建築には没案というのが存在します。
というより、最後にできる一つの案以外は全部没案です。
素晴らしくできたものも日の目を見ることなく消えていくのですね。
ある人に言わせると建築は夢を削る作業だといいます。
予算、担当者の変更、お施主さんのテイスト等によってデザインは変わっていきます。
まぁそもそもがお施主さんのお金でオーダーメイドのデザインを作るということなので、自分の自己表現の場ではないわけですね。
そういう意味で、建築の世界には夢がないと思っています。
もっと自分が作ったデザインがただ没案として消えてゆくだけではなく、何かの役に立ってほしいのです。
建築はすべてにおいて理由が必要
先ほども書きましたが、建築にはかならずお施主さんがいます。
人のお金で物を作るので、何を作るにしろ理由が必要です。
一番ぶっ飛んだものを作っても正当な理由がなければ実現できないのです。
アートとは違って、カッコいいからという理由で作れません。
自分の作りたいものが奇跡的にお施主さんとマッチしない限り、自分のデザインが残る可能性はありません。
自分の色を出すというよりかはお施主さんの意図をくみ取るという形になります。
そういう意味では自分をある程度殺したデザインをする必要があるのです。
でも、私は私自身が良いと思うデザインをしたいと思っています。
そして、それに共感してくれる人がいたらそれは素晴らしいことだと思います。
否定的なプロセスと葛藤
建築とは否定的なプロセスによって作られていきます。
最後まで残ったデザイン以外はすべて捨て案として否定され消えていきます。
その否定の連続の中でだんだんと自分を見失って自分の価値を信じられなくなっていきました。
結局できたものは自分のデザインが全く反映されていないもの。
できた物件を見て私の存在価値なんてほぼないと思うことがしばしばです。
度重なるVEによって、デザインのDNAが抜け落ちてしまっている、抜け殻のようになったデザイン。
自分は何のためにデザインをしていたのかと葛藤することが多くありました。
一つ一つのデザインが、誰かのための役に立ってほしい
私が行ったデザインが、少しでも誰かの生活を豊かにしたり、このデザインいいな、良かったなと思ってほしいと思います。
そのためには建築ではだめなのです。
生存確率が低すぎるのです。
それから建築では使用する人が限定されてしまいます。
もっと気軽に触れてほしい、もっとデザインを身近に思ってほしいと思います。
誰でも見れる、楽しめるデザインに。
自分のデザインが誰かの嬉しいに繋がってほしいと思っています。
これが、私がデザインを発信する理由です。
誰のためにこの活動を続けているのか
描かないと始まらない
日頃有名なデザイナーや画家の個展に行くと圧倒的な画力にひるむことが多々あります。
最近では、シド・ミード、東山魁夷、海老原喜之助の個展に行きました。
すると、自分の中では、自分はここまで絵に没頭できるだろうか?
自分は本当に絵が好きなのだろうか?
今後デザインで生きていけるのだろうか?
という恐怖すら湧いてくるのですね。
そして、一枚も描けないというデフレスパイラルに陥ることがあります。
自分はそこまで好きではないから描いてはいけないとか。
すごくうまくないと描いてはいけないという、固定観念を振り払う必要があると思うのです。
下手でもなんでもいいからまず描く!
気軽にデザインをしてみる!
これを私は大切にしていきたいと思っています。
誰でも発信してみてよいはず
そして、デザインをしたら、恥ずかしがらずに発信してみる!
これが必要だと思います。
今はうまくなくても、スキルが足りなくても良いのではないかと思います。
いっぱい発信しているうちにレベルが上がってくるでしょうし、下手でもヒットを打ち続けていれば、いつかホームランも出るかもしれません。
それから、やはり公共の場所にデザインを出すことで、フィードバックを得られるのは大きいと思います。
私は自分の可能性を信じて、誰でも発信していいのではないかと思っています。
日頃押しつぶされている想像力を解放して、みんながデザインを出せるようになれば、他の人も出しやすくなりますよね。
私はプロのデザイナーではありませんが、デザインを少しずつ出すことで、誰もがデザインを発信できるような世の中になったらとても良いなと思っています。
もう一度やり直せるならば夢を信じて
そして、私が建築からデザインへと軸足を移そうとしていることを発信することが、皆様のやりたいことを始めるきっかけになったらとても良いなと思っています。
あなたは、もう一度人生をやり直せるなら、どんな人生を始めますか?
現状の仕事に満足していますか?
失った夢はありませんか、自分の人生を取り戻したいと思いませんか。
抑圧された創造性を開放出来たらとても良いですよね。
私の存在が、自分の人生の意味を問い直す新たな機会になればとても嬉しいです。
自分がデザインを発信することで
とりあえず私が何かを発信することで、もっと自分の創造性や才能を信じて、皆さんが新しいことにトライしやすくなるんじゃないかと思っています。
食っていけないかもしれない、と思うこともあると思います。
でも、なるべくなら、やりたいことをやって残りの人生を過ごしたいと思っています。
一度きりの人生、どうせだったらやりたいことをやりたいですよね!
一人でも多くの人が自分の才能や能力を信じて新しい第一歩を踏み出せるように願っています。
おわりに
ここまで読んでくださって大変ありがとうございました。
これからも応援いただけたら大変嬉しいです!
色々な記事がありますので、多少でも見てくださいましたら幸いです。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
Tomo 2019.10.14.